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SAKEME: PROTOTYPE

――西千葉の、「換気口」としての裂け目に捧ぐ かつて、美術館や展示会に通う日常があった。 いま、感性が閉ざされたのではないと信じたい。 巨大な文化を受け取るには、あまりにも生活が近すぎる。 洗濯物の山と眠れぬ夜を超えずには、あの世界は直視できない。 空間を読む。文脈を拾う。 過去の記憶と接続しながら、解釈を生成する。 そういう高次の処理に、脳がついていかない。 自分の輪郭を保つことで精一杯で、家族の生命を維持することに必死で。 25時、荒れた肌をそっと撫でる。 この町には、アートの気配と呼ぶほどではないにせよ、 丁寧に紡がれたものが、その辺に寝そべっている。 生活の高さまで降りてきた美意識は、手を差し伸べることなく、ただそこにいる。 我が子と過ごしている時間もひとつの「自分の時間」であることは理解していながら、 なんだかしっくりこなくて心にゴワゴワとした引っ掛かりがあった。 自分なりにその時間についての在り方を模索している中で手にしたひとつの解は、 懐かしいこの町に、すでに清々しく刻まれていた。 この町に、癒しなんて上等なものない。 あるのは、過剰に要求されない心地よさと、抜け殻を追い立てない温度だけ。 アンテナを高く張っていた私は、もういない。 いまはただ、心身ともに伽藍堂のまま、この町でごろごろしている。 話しかけてくる知らない老人も、関わらないようにと歩く速度を早める若者も、 広がってガヤガヤと闊歩する学生も、それぞれ多い。 でも、誰も干渉しない。強烈な磁場や象徴性がない。 それでいて他人であることを尊重している──というより、皆それほど他人に興味がないのだろう。 幸せは、満ちていることだろうか。 その実感だろうか。 求められることだろうか、解放だろうか。 はたまた、そんなことどうでも良いと思える程の諦念だろうか。 みどり台駅。 上下線ともに、電車が到着する。 カンカンカンカンと轟く踏切に、隣で小さな身体が跳ねる。 帰り道には必ず、消防署へ寄り、はしご車と救急車を確認する。 そういうことなんだろう、今は。

P-001 "pedro"

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